2011年12月18日日曜日

イスラム教の教えではなく、人としてのムスリムに目を向ける

イスラム教の教えではなく、人としてのムスリムに目を向ける
違いだけに目を向けた異文化理解では不十分
佐藤 兼永

、「イスラム教をどう理解するか?」という問について考えてみたい。ムスリムでない限りイスラム教を完全に理解することはできないという結論に至る。しかしイスラム教を理解することにこだわるよりも、ムスリムがイスラム教を信じていることを尊重することの方が重要だ。

 イスラム教を完全に理解することが難しいことを示すため、「最後の審判」を例に取ろう。


イスラム教では、最後の審判が、人が裁けない罪悪――「良心」に従ってイスラム教の教えを実践したかどうかなど――を含めた人間の罪悪を裁く。例えば、一夫多妻制を「正しく」実行するかどうかは、夫のムスリムの信者としての良心にかかっている。

 前回も登場してもらった日本人ムスリムの大久保賢さんは、勝手に2番目の奥さんと結婚してしまうようなムスリムがいる背景の1つとして、配偶者ビザ目当てで結婚するケースがあるという。この時、誰が最初からビザ目当てで日本人と結婚したのかを見極めることは非常に難しい。ようは、その夫の良心に質すしかない。

 最後の審判を信じることは、イスラム教の基本的な信仰の1つだ。最後の審判を信じ、恐れるムスリムならば、良心に従って、イスラム教の教えに則って2人目以降の妻を娶っている「はず」である。

 しかしイスラム教などの最後の審判を信じる宗教に帰依していない大半の日本人にとって、最後の審判が、ムスリムが良心を実行することを担保していることは、理解が難しいのではないだろうか。日本では「嘘をつくと地獄に落ちる」と言われる。しかし、地獄の存在は、うそをつくことを抑止しているケースは少ないと考える日本人が大半ではないか。

 最後の審判より以前に、一夫多妻という制度について納得できない人もいるだろう。「一夫多妻が、戦争未亡人を救済するために始まったことなら理解できる。でも、それが現代でも続いていることが受け入れられない」「2人の妻たちを平等に扱うことなどそもそも無理。だからイスラム教が一夫多妻を認めていると考えること自体がおかしい」。

 イスラム教をどこまで理解できるかの限界点は人それぞれだ。しかし、ムスリムでない人間が「ムスリムが理解しているようにイスラム教を理解すること」は無理だと言い切っても、恐らく言いすぎではないだろう。

ムスリムの暮らしから目を背けると、イスラム教への誤解が生じる
 大久保さんは、イスラム教の教えや概念にばかり目を向けて、ムスリムの人となりに目を向けようとしない姿勢に注意を促す。

 「最後の審判のような『概念』について話をすると、ムスリムがどれだけ生き生きと生活してるかが見えないんですよ。概念についての関心だけが先行するから、イスラム教が『異常な洗脳宗教』みたいに思われちゃう」(大久保さん)


マレーシア人のムスリムで、神奈川県内の日本企業に勤めるハディヤンさんは、メディアが、日本人がイスラム教を理解する際の壁になっていると考える。メディアは、視聴者や読者が興味を抱く情報を提供するという特性を持つ。それゆえ、イスラム教にまつわるニュースではテロや紛争などのネガティブな話を報道する――というわけだ。


「(ムスリムだって)悪い人ばかりではない。イスラム圏を旅すれば、そこに暮らす人たちは、自分たちと同じ人間だと気づくでしょう。彼らは笑うことが好きです。冗談を言い合ったり、遊んだりすることが好きです。メディアは、受け手が見たいと望むものを映します。普通の人々の日常を見せられたって退屈なだけですから。皆さんの日常が退屈であるように」

 大久保さんと違い、ハディヤンさんは偏ったニュース報道がイスラム教に対する誤解を助長している側面に注目する。しかし結果的に、イスラム教がからんだ報道の中でも、「ジハード」のような概念が注目を集めることも多い。

 2人の指摘は、以下の2点において一致していると言えるだろう。我々が、イスラム教の教えや概念などにばかり目を向けがちなこと。そして、ムスリムの人としての日常に目を向けていないこと、だ。

極論すれば、ムスリムとの共存にイスラム教の理解は必要ない
 ムスリムと付きあいが深い日本人に話を聞くと、大久保さんやハディヤンさんが「ムスリムの人としての姿」を強調する意味がよく分かる。ムスリムと日常的に付きあいのある人たちは決してイスラム教に詳しいわけではない。関心があるのは、そのムスリムの人となりだ。

 茨城県日立市で中古車販売業を営む、柴田自動車販売の柴田真以千(しばた・しんいち)さんは、同じく日立市内で中古車の販売と輸出を手がけるチーマ・アルシャッドさんと10年来の付きあいだという。チーマさんの第一印象を尋ねると、「怪しかった」と即答して大きな笑い声を上げた。

 しかし、打ち解けた後は、柴田さんが結婚するまで、まるで兄弟のように仲良くしていたという。2人で新潟まで中古車の買いつけに出かけたこともあるし、互いの家を頻繁に行き来していた。今でも、柴田家の家族全員とチーマさんとの付きあいは続いている。

 それでも、柴田さんのイスラム教についての知識はごく基本的なものでしかない。「え~。まず肉。豚肉は食べられない。酒を飲んじゃいけない。あと、お祈りをする。それくらいですかね。お祈りの回数は1日に3回なのかな? 5回なのかな?」

 柴田さんの母親である文子さんに同じ質問をすると、「私たちは宗教のことについては分からないから、なおさらズバリ聞いちゃうのよねぇ」と言いながら答えてくれた。チーマさんから聞いた話の記憶はあいまいだ。「なんか、お祈りをする方向があるってチーマ言っていた気がするのね。それと断食の話を一度聞いたことがあるわね。それで何かを食べちゃいけなくって、お水は飲んでいいって言ったのかな」(柴田文子さん)

 このような話を聞くと、ムスリムの中にはがっかりしてしまう人もいるかもしれない。しかし、ムスリムと付きあう上で、イスラム教についての理解はこのくらいで差し支えないのではないだろうか。もちろん、より正確な知識を身につけているに越したことはないだろう。しかし「よく分からないけれど、彼らにとって宗教は大事なことらしい」くらいの受け止め方でよいのではないだろうか。

 真以千さんに、当初「怪しい」と思ったチーマさんと仲良くなった決め手を聞くと、「知り合った当時、中古車を買いに来た外人にしてはちゃんとしていて、素性がしっかりしており、約束を守る人間であることが次第に分かった」と理由を挙げた。

 そして文子さんはチーマさんと柴田家の関係を次のように表現した。「人間と人間の付きあいっていうか。だから宗教はもちろん関係ないし」


相手の信仰を尊重すればよい
 少なからぬ日本人が、異文化との付きあいに苦手意識を持っているのではないだろうか。特に、その異文化に宗教が絡むと、身構えてしまったり、萎縮してしまうことが多いように思える。しかし取材を続けていると、宗教というものは、日本人に限らず誰にとっても話題にしにくいものだと気づく。

 前回登場してもらったインドネシア人のメタ・アストゥティさんは、インドネシア人の生活において宗教の話題は「できればノータッチ。すごくセンシティブですねから」との見解を示す。インドネシアは、穏健なイスラム教国のイメージがある。メタさんによると、同国内における宗教間の摩擦は皆無ではないが、異なる宗教を信仰する国民が比較的平和に暮らしている。

 インドネシアは世界最大のムスリム人口を持つ国で、ムスリムが総人口の8割以上の多数派を占める。だが、イスラム教は国教ではない。インドネシアは、イスラム教のほかにプロテスタント、カトリック、ヒンズー教、仏教そして儒教などを宗教として公式に認めている。

 彼女の話を聞くと、インドネシア人が、互いに共存するための心得のようなものを身につけているように思える。「例えば私とキリスト教徒の友達は宗教の話もします。でも、『なんであなたはキリスト教を信じてるんですか?』といった話は絶対しない」。なぜなら、そんなことは「大きなお世話」だし「失礼」だからだ。



 連載第13回で紹介した中村美香さんは、日本人ムスリムで助産師の田村千亜希さんと知り合うまで、ムスリムはおろかクリスチャンに会ったこともなかった。しかしメタさんが言う「人としての当たり前の心得」を、子供の頃の生活から自然と体得した。

 愛媛に生まれ育った中村さんにとって、信仰に則って生きることは普通のことだと言う。自分自身は信仰を持っていない。しかし小さいときから白装束のお遍路さんの姿を見て育った。そんな彼女にとっては、田村さんがイスラム教を信仰しているのは、お遍路さんたちが弘法大師を信仰していることと同じだという。

 そんな彼女が、「イスラム教のことを否定的に言う人が存在する」と語る田村さんの話を受けて、こう言った。「自分が信仰していることをとやかく言われるのは嫌なはず。他人の信仰を『好き』とか『嫌い』ということ自体がおかしいのでは?」






最後まで読んでくれてありがと~~~♪

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